中村勝広GMの実績~有能・無能のレッテルをはられて~
ペナントレースも終盤、ここにきて阪神タイガースは負け越しが続きまさかの3位転落へ。
そんな中、追い打ちをかけるようにショッキングなニュースが飛び込んできました。
阪神タイガースのゼネラルマネジャー、中村勝広氏が亡くなったという訃報です。
ニュースによると、9月23日の正午前、都内のホテルの部屋で心肺停止状態で見つかったということです。救急隊が到着した時には既に全身が硬直。その場で死亡が確認されました。死因は病死のようですが、これから詳細が調べられるのではないかと思います。
近年はタイガースのためにGMとして活躍していただけに突然の死は未だに信じられません。
同時に有能とも無能とも言われた中村氏の実績について改めて振り返る良い機会となりました。
出典:http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20120828-1007660.html
・現役時代
中村勝広氏は、1971年のドラフト2位で早大から阪神に入団しました。1年目から頭角を現し、3年目で二塁手のレギュラーを獲得、堅実なプレーで70年代のチームを支えました。そして、1978年に残したシーズン守備率.995は当時の二塁手の日本記録となり、中村氏の黄金期が顕著に現れています。その後、1979年からは定位置を榊原良行に譲り、一塁手としても起用されるが、出場機会は大きく減少してきました。さらに、1980年には岡田彰布やヒルトンが入団したことが大きく影響しており、選手と言うよりは若手育成のためのコーチをメインとして兼任となりました。
・監督時代
82年に現役を引退してからは、阪神の2軍監督を務め、86年にはウエスタン・リーグでの優勝を果たしたています。その成果が徐々に認められてきたのか、90年に1軍の監督に昇格。92年に2位とAクラス入りしたものの、翌年以降は低迷が続きました。このころの阪神は日本の景気と同じように85年の優勝バブルがはじけたのか、万年Bクラスが長年続くというタイガース始まって以来の超暗黒期となったのです。投手陣は湯舟や猪俣など安定した人材がいたものの、打線が全く打てない。かつてのタイガースの面影はどこにもありませんでした。
そんな時代をぐっとこらえてきたのが中村氏だったわけです。当時は無能な監督として「負広」などと言われたりもしましたが、今となって考えると、当時のGM陣が無能だっただけなのです。選手がいなくては勝てるものも勝てない。補強も大してせず、観客動員数は減るばかり、あの広い甲子園は連日閑古鳥が鳴いていたのを良く覚えています。観衆はよく1万人台しかなく、プロ野球に関心を持つ人も少なかったのではないかと思います。
そういう中で、95年7月23日を最後に途中休養し、シーズン終了後に監督を辞任しました。
・ゼネラルマネージャー時代
その後、2003年からオリックスのGMに就任しました。06年からオリックスの監督就任したが、5位に終わり、1年で辞任しています。09年まで球団に残りましたが、花形舞台に出てくることはほとんどありませんでした。
しかし、ここからが中村氏の野球人生集大成だと言えるのではないかと思います。12年8月、阪神のGM就任要請を受け、翌月にGMに正式就任したのです。
金本や桧山など、2000年代を支えたきたベテランがそろっていなくなっていった中、中村GMとして西岡や福留、ゴメス、呉昇桓の獲得を行い、結果、近年のタイガースをずっとAクラスに導いています。
和田監督の去就が取り沙汰される中、実は一番の痛手は中村氏の訃報だということを後になって気づくかもしれません。
監督時代の苦労があったからこそ、GMとして本領を発揮できたのだと思います。
まだまだこれからのタイガース、プロ野球界のために活躍できた人物だっただけに大変残念です。
ありがとう、中村勝広、心より冥福をお祈りしたいと思います。
三谷美菜津選手、ラケットに込めた勝利
バドミントン界で快挙です。
バドミントンのヨネックス・オープン・ジャパン第3日は10日、東京体育館で各種目の2回戦が行われ、女子シングルスで世界ランキング18位の三谷美菜津(NTT東日本)が同1位のサイナ・ネワル(インド)を2―0のストレートで撃破し、金星を挙げました。
女子バドミントンと言えば、2002年から2009年まで三洋電機バドミントン部所属だった潮田玲子と小椋久美子とのダブルスペア「オグシオ」が有名で、全日本総合選手権大会5連覇、世界ベスト8に入れる実力派ペアとして活躍した記憶が大きかったのですが、今回の快挙で新たなヒロインが誕生するかもしれません。
三谷が世界1位に勝利した瞬間、「キャー」と雄叫びを上げました。「厳しい試合になると思っていたが、持ち味のスピードを出せたので満足のいく試合だった」。12年フランス・オープン決勝で下した相手とはいえ世界1位。第2ゲームは2―9と先行されたものの、相手のミスで巻き返し、最後は6連続得点で押し切ったのです。
今年の世界選手権の記録からいくと三谷選手の名前はなく、マークされていなかったのかもしれません。
2015年世界選手権
桃田賢斗:男子シングルス3位
遠藤大由/早川賢一:男子ダブルス3位
福万尚子/與猶くるみ:女子ダブルス3位
しかし、昨年の世界選手権で銅メダルを獲得しており、どこか自信をつけていた節も読み取れます。しかし、実際には今季は結果を残せず「ラケットにシャトルが当たらなかった」と不振に陥っていたということです。それでもスカッシュ用の少し重いラケットを振るなど基本の練習に戻り、復調の兆しをつかんできたのが、最近。そして、ついに今回の試合で世界ランキング1位を倒してしまったのです。
テニス界では錦織選手がその存在感を見せつけていますが、バドミントンでもニューヒロインとして活躍してほしいところです。
体格的には160㎝と決して恵まれているわけではないですが、小さなころからの積み重ねが今回の結果につながったと思います。とはいえ、女子バドミントン界は日本の中においては戦国時代、日本選手で世界ランキング20位以内に入っている選手はなんと6人いるのです。
9位に奥原希望選手、10位に山口茜選手。16位に三谷美菜津選手。17位に髙橋沙也加選手。18位に佐藤冴香選手。20位に橋本由衣選手というなか、どれだけ上位に食い込んでいけるかが注目です。
石川祐希、全日本男子バレーの新エース
女子バレーのワールドカップが終わり、今度は男子バレーのワールドカップが始まりました。
前評判こそいまいちな男子日本バレーボール陣ですが、世界ランク20位と、今回参加チームで最下位といえる中、どこまで活躍できるかが見所です。
一昔前の中垣内や荻野といった時代が私の記憶には新しいのですが、すでにそのころのメンバーも今や主将となった清水選手くらいでしょうか。
若いメンバー中心の発展途上のチームでもあります。目指すは東京オリンピックに照準を合わせて是非レベルアップを図りたいところです。
出典:時事通信社
その中で、注目の選手はやはり石川祐希選手でしょう。
2014年の5月から全日本に合流し、現役大学生でありながらすでに新エースとして活躍しています。2020年東京オリンピックに向けは強化指定選手に選ばれてもおり、将来が非常に楽しみな選手です。
今日はワールドカップ第一戦、エジプトとの戦いでしたが、明らかに全日本のエースとして19歳ながら貫禄のプレーが相次ぎました。
最終セットでは圧倒的なブロック力が光りました。
相手によりブロックの上から打っててくることもある中、良くジャンプしてブロックを連発して止めました。
石川選手はバレー選手の中では決して身長が高いというほうではありません。
一般人から見ると非常に高いと思われますが、200㎝が当たり前の世界でわずか191cmしかありません。
そんな状況の中、最高到達点は345㎝あり、大きな選手に決して引けを取らないジャンプ力を持っています。
更に注目なのが攻撃だけでなく、守りにも定評で、サーブも安定したすばらしい技術を持っています。
6人制バレーは一人ずつローテーションしていくので、後方に下がったときはセンターラインより前ではアタックが打てません。
しかし、最大の武器となるのがバックアタック。
時間差を利用して前衛がジャンプし終わるころに後ろから強烈なアタックを浴びせます。石川の場合左右に振り分ける技術を持っていますので非常にブロックにかかりにくい特徴があります。
さて、石川選手の成長をたどっていきたいと思いますが、地元は愛知県の岡崎市立矢作南小学校に通い、小学4年生の頃に姉の影響でバレーを始めました。
矢作南小は近隣の中ではバレーが非常に強かったようですが、石川選手はバレー開始の1年目ですでにベンチ入りしていました。やはりこのころから素質が群を抜いていたのではないかと思われます。
中学校は岡崎市立矢作中学校に入学、このころから全国への道が開けてきました。
愛知県選抜チームで活躍し、全国大会で準優勝しただけでなく、優秀選手にも選ばれています。
高校ではやはりバレーの強豪である星城高校に進学。
高校時代に身長の伸びがあり、明確にスパイカーとして活躍するようになりました。
高校バレーではインターハイ、国体、選手権において優勝しており、大変素晴らしい成績を収めました。
インターハイでは優秀選手、選手権では最優秀選手にも選ばれており、全日本ユース代表にも選ばれるようになりました。
そして高校卒業後は中央大学に進学し、バレーの技術をさらに磨き始めました。
そして、冒頭にも述べましたが、2014年5月には全日本代表入りを果たしたのです。
大学では関東大学1部リーグを優勝に導き、新人賞とサーブ賞を受賞しています。
2015年1月から3か月間は、イタリアバレーボールリーグの「パッラヴォーロ・モデナ」への期限付き移籍をします。
具体的に凄いところをいうと、まず一つは打点の高さ。
191cmと決してバレーボール選手の中では高くない身長であるにもかかわらず非常に高いジャンプ力があり、スパイクをする際の最高到達点は345cmもあります。
これは全日本の平均よりも高く世界で文句なしに通用する選手です。
今日のエジプト戦では最終セットではブロックを決めまくっていました。
南部監督も石川選手の活躍が輝いていたことを確かに認めています。
ただ、バレーはチームプレー、石川選手がいくら輝いてもほかの選手が追従しなければなかなか勝てないのも事実です。
あどけなさの残る19歳、今日のプレーはサービスエースが2本決まったことが良かったようです。
スパイクについても前半から決まっていたということで、勢いを感じます。
こんな石川祐希選手のすばらしさがわかったところで、次に気になったのはその家族です。
石川選手は5人家族の長男で、両親と1つ上の姉と5歳下の妹がいますが、スポーツ一家ということです。
父親が実業団の元陸上選手で、母親が実業団の元バスケ選手、その血を受け継いで今の石川選手があるということです。
1つ上に姉がいるということですが、この姉がバレーをやっていたということで、石川選手がバレーをするきっかけになったようです。
それから5歳下の妹である石川真佑さんもバレー選手で、バレー強豪校の長野市立裾花中学校3年生で主将を務めています。
先日長野県予選にタイミングよく見に行く機会がありましたが、そのパワフルなプレーに圧倒されました。あのプレーは中学生離れをしています。
そして、先日行われた北海道での全国大会では見事に優勝しました。
最優秀選手の一人にも選ばれ、将来の全日本目指して更なる活躍が期待されます。
身長は172㎝と中学生の中では高いほうですが、高校へ進学してからどこまで伸びるかが今後の全日本に選ばれるかの一つのポイントとなるかもしれません。
あと2,3年で仮に全日本にでも選ばれるようなことがあると、まぎれもなく兄弟で全日本バレーに選ばれることになります。
同じ会場の中で兄と妹が鉢合わせする姿も見られるかもしれません。
出典:http://ameblo.jp/gen9368/entry-11938185752.html
妹の石川真佑選手のこれからに注目しつつ、話は石川祐希選手に戻ります。
今日のワールドカップが全国放送されたことで少なくとも石川祐希を知らない人もたくさんその存在を知ることとなったでしょう。
ユニホームを見るとよくわかるのですが、男子チームのユニホームにはスポンサーのワッペンがほとんど見えません。
女子チームは肩のところまでスポンサーのワッペンでぺたぺただったのと比べるとなんだか寂しい状態です。
しかし、石川選手のように今回お茶の間に放送されたことでベールを脱いだといえる状況から今まで見向きもしなかった企業からスポンサーの声がかかるかもしれません。
今日のエジプト戦では格上相手に見ごとな勝利をおさめました。
お客さんの数はいまいちでしたが、一日一日と少しでも多くのお客さんが見に来てほしいところです。
私事ながらやはり中学生のころバレーをやっており、当時の全日本女子バレーを見に行く機会がありましたが、こういう時に限って風邪をひいてしまいました。
そして高熱に侵され、プロ選手のバレーを見ることができませんでした。
もしかするとあのプレーを生で見ていればそれが起爆剤になってもっと違った人生があったかもしません。
明日のバレーはアメリカ戦です。
苦戦は必至の状態ですが、皆格上ですから胸を借りるつもりで是非頑張ってほしいところです。
5年後東京オリンピックのころには石川選手が日本代表を率いて世界に挑んでいくことになります。
そのころまでに石川選手と同じようなレベルの選手が次々と現れたとすると、ずっと低迷中の男子バレーがもしかするともしかする結果になるかもしれません。
今はまだ見えないところは多いですが、かつて女子バレーもそうでした。
そういう時期を乗り越えて、あの男子バレーの黄金時代、大古や猫田の頃の日本バレーのような状況を期待していきたいと思います。
原嵩選手、中学時代のピッチングフォームがあだに
悔やまれるピッチングフォーム。
しかし、今更気づいても遅かったのです。
初出場の専大松戸(千葉)が、初戦敗退を喫した。
プロ注目エースの原嵩投手(3年)は、5回途中までに5四死球と制球を乱して、4失点。1回は3者凡退に抑えたが、投球時の2段モーションを注意され、リズムを崩しました。千葉大会では注意されなかったフォームだが、「(審判に)5~6回言われました。もう少し自分のピッチングがしたかった」と悔やんでいました。
原選手のフォームの特徴としては、一本足打法のように左足を伸ばしながら沈み込むところが特徴的です。昔の工藤っぽい下半身の使い方といってもよいでしょう。
ゆったりと構えて最後にグッと踏み込んでノビのある球を投げるのでとても力強く感じます。
投げた後、蹴り上げた足の勢いで若干左に身体が流れることがありますが、どちらかというとそれが彼のバロメーターでしょう。球を置きに行くときは左に流れません。
問題なのは今回試合中に注意された2段階フォームだという点です。
1日200球投げ込んだことで球威は増したそうですが、このフォームが最終的にあだになってしまったようです。
投げ込みのおかげでここまで順調にスケールアップしてきましたのにまさかフォームが注意されるとは思ってもなかったのでしょう。
と、言ってもプロも注目する選手であることは変わりありません。
今回の反省を基に体を作り直して、ぜひプロで活躍してほしいものです。
昨年7月3日には、母昭子さん(享年50)をがんで亡くしました。「負けてしまいましたが、全力でプレーできた。それは一番お母さんが喜んでくれると思う」と言っていました。
山本皙監督の魂、山本違いの逮捕監督とここまで違うのか!?
激戦の大阪大会を勝ち抜いた山本皙監督の雑草魂が輝かしい。
選手と監督の強固な信頼関係は、家族以上のものがあります。第97回全国高等学校野球選手権・大阪大会を制し、春夏通じて初めて甲子園の切符をつかんだ大阪偕星学園。熱血指導で“雑草集団”をたたき上げた山本晳監督。歓喜の輪を目にするとその場で泣き崩れました。
2011年、監督に就任した当初はとても甲子園を目指せるチームではなかった。「『甲子園に行く』なんて言っても、誰も信じてくれなかった。言ってるのは自分だけ」。私学ながら野球部は荒れ、ポテンシャルの高い大阪桐蔭や履正社といった強豪校に太刀打ちできる存在ではなかったのです。
それでも勝てる喜びを、努力の大切さを生徒に教えるため、日付が変わるまで練習に付き合った。「子供たちに肉をね。お腹いっぱい食べさせてあげたかったから」と早朝4時に起床し、約10キロもの鳥の唐揚げを作り、生徒に弁当として持たせた経緯があります。
また、同校野球部はこれまで用具メーカーを通さず、ユニホームや道具を購入してきた。「ダイレクトメールで来る“廃盤”を使ってました。去年のデザインで在庫処理になるものを格安で売ってもらっていた」と山本監督。練習用のユニホームは上下500円、試合用でもストライプ柄にKのマークが入ったもので上下1万円。スパイクは980円という格安さ。就任当初、このデザインにしたのも「お金がかからないんですよ。倉敷高のときも同じデザインだったんですが、Kのマークはマジックで書いていたんです」と説明しています。
そして、そこには山本監督のある理念があぅたのです。「スポーツってね、国籍、肌の色、お金持ち、貧乏とか関係ないんですよ。野球がうまい奴が勝つ。貧乏でもお金持ちに勝てるんです。野球をしてるときくらいは、子供たちにそういう夢を見させてあげたい」。さらに「前任の高校で突然、部員が来なくなった。何でかと聞いたら部費が払えないから。僕がその子の家に行くと、母子家庭でお母さんが真っ黒に手を汚したまま出てきた。ガソリンスタンドで働いてたそうです。なのにプッチンプリンを出してくれて…。もう涙が出ましたよ。それでお金はいらないから、野球をやろうと言ったんです」と貧乏時代を耐え抜いた過去を告白してくれました。
一方で詐欺容疑で逮捕された監督がいます。岡山県の私立倉敷高校の野球部監督、山本セキ容疑者(42)です。今年2月、野球部のバスを修理に出した際、自身が所有するバスを代車として父親の崔再鉉容疑者(同罪で逮捕)から借りたように装い、保険会社から約47万円を騙し取った疑いがあるとのことです。
同じ山本でもこの違い。
どうせなら快挙で名前を有名にしたいものです。
渡部香生子、中学時代の基礎が涙の獲得へ
決め手は平泳ぎ。
渡部選手のカギは中学時代に苦手だった平泳ぎを克服したことが今回の結果につながったと推測できます。
4歳の頃、病弱だったため少しでも丈夫になるようと両親がスイミングスクールに通いはじめました。中学1年までは個人メドレーをメインにバタフライ、背泳ぎ、自由形などでも競技会に出場していました。しかし、中学1年の秋に右肩の故障により肩への負担の少ない平泳ぎに出場したところ好成績が出たため、以後平泳ぎに出場する機会が増えました。この頃、本人にとって平泳ぎは最も苦手だったのです。
2010年、中学2年の全国中学総体で100m,200m平泳ぎ2種目優勝。200m平泳ぎ決勝では、2008年に福留景子が16年ぶりに更新した日本中学記録を更新したが、このレースは生涯で4本目の長水路200m平泳ぎのレースだった。
前半の2種目を最下位の8番手で終えると、先月のスペイン・グラナダ合宿で習得した勢いよく回るターンで得意の平泳ぎに入る。なめらかに水面を滑るように泳ぐと一気に差は縮まり、ラスト50メートルでメダル圏内の4位に上がる。ラスト50メートルの自由形は30秒11で泳ぎ、さらに2人を抜き去った。準決勝でマークした自身の日本記録を1秒16も更新しての銀メダルに渡部は「こんなタイムが出るとは思ってなかった。まさか2番が取れるなんて。本当にうれしい」とこみ上げるうれし涙を抑えられなかった。
12年ロンドン五輪では日本選手団最年少15歳で出場した。前途洋々のはずだったが、直後から不振に陥った。繊細な性格の15歳。周囲からの期待への重圧など、さまざまなことが絡んでバランスを失っていく。そんな危機的状況だった2年前に出会ったのが五輪メダリストを育てた竹村コーチだった。
本命は平泳ぎにある。4日の100メートルはメダル、7日の今季世界ランク1位のタイムを持つ200メートルでは頂点をうかがう。18歳がロシアで旋風を起こす。
一場靖弘、現在の生き方がたくましい
かつてはドラフトの筆頭候補として日本中の注目を集めた男。
それが一場靖弘なのです。
プロ入り後は日本シリーズで優勝を果たした東北楽天時代。05年の創設時の弱小ぶりを思うと感慨深いものがあったのですが、その創設時の楽天投手陣の一翼を担ったのが一場靖弘さん(32)でもあったのです。入団前に巨人などから裏金を受け取っていたことが発覚し、大騒動になりましたが、それだけ世間に注目されていたのです。
しかし、その後は移籍、結果も残せず2012年戦力外としてプロ選手を辞めざるを得なくなりました。
しかし、彼に残ったのは家族という大きな宝です。
プロ野球がダメでもそれで人生終わりではありませんでした。
一場さんは、JR水戸駅からクルマで10分の通信機器販売会社「パーソナル電電」にいました。
「楽天時代に先輩やコーチとしてお世話になった紀藤(真琴)さんに声をかけていただき、営業をしてます。事務用の電話機とかコピー機、防犯カメラとかの商材を建築屋さん、美容室、介護施設とかに提案するのが仕事。お客さんには野球好きの方も多く、話がしやすいですね」
今でこそ、すっかりサラリーマン生活が馴染んでいるのですが、ヤクルトから戦力外通告を受けたあとは何をしていたのでしょうか。
プロ野球引退後は、東京の東久留米にある、お店の看板全般を作る会社で看板のデザインをしました。もちろん、すぐにデザインができるわけはなく、デザインに必要なパソコンのイラストレーターとかフォトショップの使い方を教えてもらい、だんだんできるようになったということです。
お客さんと接点を持つ厳しい仕事の方が自分の今後に役立つと思ったのと、今の会社は基本給プラス歩合制なのでよりやりがいがあると判断したということです。
一場を振り返る中で一番輝いていた時期はいつだったのだろうか?
一場は桐生第一高校2年の時、夏の甲子園に2番手ピッチャーで出場して優勝したものの、3年時は初戦敗退。明治大学に進学し、4年の時、戦後最多のシーズン107奪三振や完全試合を達成するなど大活躍しました。当然、ドラフトの目玉と注目されたが、「栄養費」「タクシー代」「食事代」などの名目で巨人から200万円、横浜から60万円、阪神から25万円を受け取っていたことが発覚。巨人の渡辺恒雄オーナー(当時)らが辞任する騒動に発展。自身も入団した楽天では4年間で通算15勝と不本意な成績に終わりました。
この高校からプロ選手になるまでが人生で一番輝いていた時期ではないでしょうか。
それがわかるのは彼の話題が世間のお茶の間にたびたび出てきていたからです。
ある意味スターのような状況だったのではないかと思います。
同時に金銭スキャンダルで悪者になったのが運のつき、その後はプロ野球でも成績が残せていませんでした。
昔を振り返り反省する日々が続く一場。
これからの人生はどう生き抜いていくのでしょうか。