アナログ24時

気になったことを記事にしています。アナログスピードな人間ですが・・・

ざわちんの顔が・・・肌年齢やダイエットに注目の美腸美容法

まだ23歳のざわちんさん。

日々メイク関係のイベントやテレビ出演で大忙し。

しかしそんなざわちんさんにも大きな問題が。。。

 

それは彼女の肌年齢なのです。

多いときは1日5,6回もメイクをするその肌は見るからにシミらしきものがあるのです。

そして、調べた結果、その肌年齢はなんと36.5歳だったのです。

さらに肌年齢を悪化させている原因はそれだけでなかったのです。

なんと、その一番の原因は便秘にあったのです。

便秘による肌のむくみなどが、肌のうるおいを押し下げ、実年齢よりも大幅に上回る肌年齢にしてしまっていたのです。

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出典:s3-ap-northeast-1.amazonaws.com

それを解決すべき、クリニックに行ったところ、「えごま」を進められました。

そしてえごま美容ケアをスタート。

「えごま」は腸を活性化するのに非常に効果的であるのです。

いがいに「えごま」は飲みやすく、2日目にして便通がよくなったということです。

さらにさらに、「えごま」による効果により体重まで健康的に減っていったのです。

週2回の便通が、週4回に増え、徐々に効果を表してきました。

そして1か月後、36.5歳と言われたその肌年齢が若返ったのです。

 

その効果は?

ニキビ跡がわからないくらいにきれいになり、特にぶつぶつはなくなりました。

便通がよくなったことで肌の潤いが出てきて皮膚全体が活性化したのです。

 

油を飲むことで肌の油分量は10代にまで増えるのです。

その潤いとともに53㎏あった体重が48㎏にまで減ったのです。

健康的にダイエット効果まで出ていたというわけです。

 

最終的に、肌年齢は26.5歳にまで若返ったのです。

シミの数は14個から8個にまで減少、油分量は10代半ばにまで改善、10%→61%まで増えたのです。

 

腸にはたまっていたガスが少なくなり、便秘が改善に向かったわけです。

つまり、便秘の解消により代謝が上がり結果的に体重が落ちたというわけです。

 

女性が注目する美容でも健康的に進めることでより一層効果が上がるということがわかりました。

 

ざわちんさんのプロフィール

本名・小澤 かおり(おざわ かおり)。群馬県太田市出身。
AKB48板野友美のそっくりタレントということで、モールでマスクをしていたことから騒がれ始めました。また、メイクをアレンジして様々な有名人の顔真似をしてブログで公開しています。アメーバブログ新登場第1位を記録し、公式ブログの1日のアクセス数は100万超を計上している超人気者。

今や知らない人はほとんどいないのではないでしょうか。
芸名の由来は、周囲が板野と誤認して“ざわざわ”する事と名字の小澤の「ざわ」に、板野の愛称「ともちん」に倣って「〜ちん」を付けたものということです。

旗松亭、木下隆靖社長の経歴が問題ではないのです

会社はまるで生き物のようです。存続することに意味があるといいますが、経営項目やそのやり方、時代に合っているかどうかでどんな企業でもなくなってしまう可能性はあるのです。

 資本金3700万円の旗松亭は、長崎県平戸市大久保町2520、代表木下隆靖氏、従業員53名で運営していました。しかし、長崎地裁佐世保支部へ民事再生法の適用を申請し、同日保全命令を受けたのです。

   このホテルは昭和天皇など皇族が宿泊したことで一躍有名となりましたが、その命運もついには尽きてしまったといえます。同社は1949年(昭和24年)に映画館の経営を目的に創業。57年に旅館「米乃屋」を開業し、69年(昭和44年)2月に法人改組、同年8月に国際観光ホテル「旗松亭(きしょうてい)」をオープンした。ホテルは平戸港の高台に立地し、当初33室だった客室数は増築・改装により現在は客室数90室にまで拡張しました。客室のほか、食事処、大宴会場、屋上露天風呂やパノラマ展望大浴場を擁し、昭和天皇をはじめとする皇族が宿泊した実績もある平戸地区トップクラスの規模を誇るホテルとして知られ、修学旅行などの団体客や一般観光客を集客、2002年1月期には年収入高約11億6500万円を計上したということです。

 木下隆靖社長について知りたいと思いブログを拝見しようとしましたが、どうもアクセスが殺到しているのかつながりにくいようです。

 しかし、これは社長一人の問題ではなく、第3者的な立場の人が客観的にその原因を探していく必要があるのではと考えます。

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 しかしその後は、九州地区を訪れる修学旅行客などの減少に加え、景気低迷の影響で一般観光客の利用が減少し、客室稼働率が低迷。施設の増築・改装などを金融機関からの借入金で賄ってきたことから資金繰りが悪化するなか、2010年3月には金融機関からの借入金が債権回収会社サービサー)に売却された。その後、給与体系変更や従業員のパート化などで経費を切り詰める一方、一般観光客の取り込みにより立て直しを図っていたが、大幅な欠損計上が続き、2015年1月期には年収入高は約5億8200万円にまでダウン。宿泊客減少に歯止めがかからず、収益改善の見通しが立たないことから、自主再建を断念したということです。

 ホテルは現在も営業を続けているということです。2月2日11時から平戸文化ホール(平戸市岩の上町1529)で債権者説明会が開催される予定とのことですが、今後どこか新たな出資者が現れてくれるか、手腕が発揮される大手のデベロッパーなどが手を挙げてこのホテルの再興に携わってくれることを祈ります。

旗松亭のおもてなしの心は、「平戸らしく、手作りで、真心こめて。」が、オープン当初からの信条ということで是非存続してほしいところです。

 

オホン・プレブドルジ選手のレスリング経歴 ~伊調に勝ったその人~

世の中、当たり前だと思っていることがちょっとの油断や隙で180度違う展開になることがあります。

先日のサッカーU23での試合、日本対韓国もまたそうでした。一人の選手の入れ替わりでその雰囲気が大きく変わり大逆転劇を起こしたのです。

レスリング女子58キロ級の伊調馨(ALSOK)の不敗神話もまた同じようなことで崩れてしまいました。それは、不戦敗を除くと13年ぶりとなる黒星でした。ヤリギン国際の開催地ロシアから成田空港に帰国しましたが、敗戦について「いい勉強になった。成長するきっかけと捉えたい」と気丈に語り、日本選手初の4連覇が懸かる8月のリオデジャネイロ五輪に向けて気持ちを切り替えました。

 昨年の世界選手権で10連覇し、リオ五輪も盤石と見られたが、五輪半年前にして2003年以来、不戦敗一つを挟む連勝も189で止まったことになります。

 雑な攻めも目立ち0-10のテクニカルフォールで敗れた初顔合わせの22歳、オホン・プレブドルジ(モンゴル)との決勝を「途中で自分を見失っていた。相手が強かったというより、自分が弱かった」と振り返りました。

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出典:http://www.asahi.com/articles/GCO2016013001001721.html

 今回、伊調に勝利したオホン・プレブドルジとはいったいどういう選手なのでしょう?

 もともとモンゴルにはモンゴル相撲と呼ばれるレスリングのような競技があります。そして国際化した代表格が日本の大相撲。

 もしかすると彼女もその影響を受けている可能性があります。

 ただ、驚くほどにその情報が少なく、今大会では誰もマークしていなかったのではないかと考えられます。

 それもそのはず、プレブドルジ(PUREVDORJ Orkhon)選手について、いくら58キロ級を探してもランキング上位に出てこないのです。

 それもそのはず55kg級の17位にランクインしていた選手だったのです。

 階級を上げてこの結果より、55kg級の時から58kg級を意識していた可能性が読み取れます。

 

 今大会後の各インタビューで気になったのは、ALSOKの大橋監督が「まあ、負ける時はあんなもの。五輪じゃなくて、よかった」と淡々と話していたことです。

 負けは負けということで、その敗因について詳しく分析するとともに次の大会ではどういう気持ちで臨むのか、メンタルにおいてもフィジカルにおいても再度調整する必要があります。しかし、こういうコメントを聞くと次回大会がやや不安になるのです。

 プレブドルジ選手はまだ22歳、体力的にもこれからの選手で、その反面伊調は31歳、経験こそあるものの、体力勝負のこの競技においてどこまで続けられるのか、そういうことを考え始めるきっかけになるかもしれません。

 いずれにしても照準は来年8月のリオ五輪ということは間違いなさそうです。
  

「墓じまい」費用とお布施と檀家の現実

つい最近身に起こったことに関連して大変興味深い記事を目にしました。

人間生まれてくれば誰でも死ねというのは定めですが、「墓じまい」とお金との問題が絡んできている現実があると感じたのです。

 記事によると、墓の解体・撤去、引き取りを専門に行っている安養寺クラシック(越前市)の「合祀(ごうし)場」の紹介がありました。代表の平林徹也氏によると「8年ほどの間に県内各地から集まった」とのことです。受け継ぐ人がいない墓を撤去・解体し、遺骨を共同墓などに移す「墓じまい」が県内でも出始めているそうです。

 さて、このような記事を目にして目の当たりにしている問題は、今のお寺の檀家を続けるか否か。無視できないのがやはりお金と現代特有の事情によるものです。

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お墓に対するこんな姿勢が薄れていくのであろうか・・・

 

 理由を挙げていくと、一つは高額なお布施の維持ができるかどうかの問題です。

我が家の墓はなんでも江戸時代から今の場所にあったようですが、寺が国宝であるためいろいろと格式が高いらしいということです。

 それがどういうことか、近日、身内が亡くなったため、そのお寺へいろいろとお願いしたわけですが、その際に発生する費用に愕然としたのです。戒名からお布施、法事に至るまでの費用が自分の常識を超える額面だったのです。

 もちろんそれだけ由緒正しいしっかりとしたところだというわけですが、生活を考えるととても現実的ではないというわけです。しかし、ご先祖様は代々そのお墓を守られてきたというわけで私の代で終わりにしてしまうのもまた、ご先祖様に申し訳ないという気持ちなのです。

 

 それから、もう一つは今の住まいとお墓との距離が非常に離れているという点です。

もちろん、墓参りには定期的に行きますが、それでもいろいろな法要や行事を考えるととても今の親世代のようには参加ができないのです。

 

 こんな事情でやむを得ず「墓じまい」を考えるケースもあるのではないでしょうか。

 

 墓じまいの業者さんでは、1~2年間は仮安置して合祀場に移すということです。墓じまいを知らされていなかった親族とのトラブルを避けるためで、合祀場では、地元の僧侶に来てもらい、毎年法要を営んでいるということのようです。

 実際に「墓じまい」にかかる費用を調べてみたところ、まずは墓石解体にかかる費用について、1平米あたり10万円程度かかるようです。

 さらにはこれまでお世話になったお寺様へ最後のお布施が必要になるようです。一般的には数万円程度のようですが、お寺によってはここが大きく異なるかもしれません。

有名どころのお寺ですとまずその数倍はかかる可能性があります。

 

 若いころに進学や就職で県外に出た70代前後の人から、県内に残った親が亡くなった際に墓じまいを依頼されるケースが多いのが現実なようです。また、多くは自分たちが徐々に墓参りが難しくなり、子どもにも世話を任せられないのが理由ということで、現代特有の事情とも考えられます。

 

 一番の問題は墓の放置でしょう。

 おそらく、身内の方々が何らかの事情でいなくなってしまったか、もしくは、金銭面の問題で放棄してしまったというケースもあるのではないかと思います。

 
 墓を解体した後、土台などは細かく砕いたり加工したりしてリサイクルされるということです。しかしながら、仏石は先祖が宿り、多くの人が手を合わせてきたものであるからこそ、なんとか存続させるのが一番であるのではないかと思います。

 

 日本では、高齢化がますます進み、それに伴い、お墓の問題もますます顕著になってくるのではないかと思います。身内の中には「散骨を」という意見もきかれましたが、今後子孫の墓に対する意識が薄れるのであればそういった方法が一番世の中にとって負担のない形かもしれません。

 

 生きててもお金、死んでもお金、最近の出来事で、なんとなくそういう現代の一面を痛感する結果となりました。

長野県北信の須坂市にイオンモール出店のニュース

 いわゆる就職が理由で長野市に住むことになってしまった私。

あれからかれこれ15年、転勤などはあったものの再び長野市へ戻ってきました。

その前まで住んでいたところは大都市圏、しかも海外でしたから、戻ってきての第一声は「空気がきれいだなぁ」というものでした。

ところが、次第に生活に慣れてくると次に感じたのが「相変わらず長野って買い物するところがないんだよね・・・」というなんとも日常生活の物足りなさを実感してきました。

 四方を山に囲まれた閉鎖商圏でもある長野の北信地域、しかし近年は交通網の発達とともにその地域一帯の商圏は60万人規模もあるみたいですが、核となるショッピングセンターが一つもないことに県外から来た私にとっては違和感を感じていたのです。

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イオンモール建設予定地である高速須坂インター付近

 

須坂市に大型ショッピングモール建設の報

 そんななか、つい最近になって知ったビッグニュース(私にとってですが)がありました。

 それは、須坂市井上に開発業者が建設を検討する大規模ショッピングセンター(SC)、つまり「イオンモール」の出店のニュースです。

 概要は、長野自動車道須坂長野東インターチェンジ(IC)入り口北側に広がる農業用地で、人通りも少ないこの地に2014年、三重県四日市市の開発業者「長工」が約14万3000平方メートルに及ぶ県内最大規模の商業施設「イオンモール」を建設する計画を市に提案したのです。同社は北信地域に限らず、新潟県上越市など広範囲からの集客が期待できる立地と見込んでいるというものでした。問題は、開発には市が農地指定の解除を国に要望することが必要で、市が建設の可否について検討してきました。

 須坂市長野市に隣接する人口5万人余りの小さな市です。市街地は戦後、富士通関連の工場地帯として発展しました。市内にはいくつか工業団地もでき、1960〜70年代に商店街は最も栄えたということです。しかし、80年代以降は工場の縮小、撤退が相次ぎ、地元の飲食店や日用品店も次々と閉店に追い込まれた現実に直面しています。

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須坂にこんなショッピングモールが誕生するのか!?

 交通においては近年、長野電鉄が運営する鉄道、須坂ー松代ー屋代線廃線となっており、現在は長野線のみがなんとか存続されいるという状況です。本来望む形であろう駅を中心とした街づくりはどこへやら、駅前は閑散としており、何十年前に建てられた古めかしいイオンショッピングセンターがあるくらいです。

 私も何度か足を運んだもののここで買い物をしようという雰囲気はまったくありませんでした。唯一県立の病院があるくらいで、古いマンションがいくつかあるくらいで過疎化しつつある町の印象は否めませんでした。

 夏には毎年地域の商工会主催での須坂祭りが開催されていますが、そこで行われる花火大会に行ってみたものの、「2000発の大花火大会」といううたい文句はあるものの、実際は200発にしかみえない非常にしょぼいものでした。

 

大型商業施設計画は実は2004年からあった事実

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オリンピックスタジアムとサッカー場の図。本当はここに隣接してイオンモールが出店予定だったが・・・

 今回の須坂市への大型店出店計画であわてているのはお隣長野市。実は過去には長野市へ全国的にも最大規模のイオンモールを出店(敷地面積19ヘクタール)しようと試みたことがあったのです。2004年に長野市篠ノ井東福寺で開発計画が持ち上がった案件です。ここは隣接して、長野オリンピックで開会式が開かれ、今は野球場となっている「長野オリンピックスタジアム」やサッカーJ3・ACパルセイロのホームスタジアムがあります。本来ならばこの土地にイオンモールができていたはずで、それが実現していたならば、スポーツと融合した新しい街が形成されていたことでしょう。

 ところが、長野商店会連合会など地元商工関係者が反対運動を展開したのです。そして、市は「農地の転用が困難」との理由で開発を事実上拒否してしまいました。当時わたしは小売業界におりましたが、実際にイオン側からも出店の打診が来ていたという噂をききました。それくらい現実味を帯びた話であり未だに腑に落ちない部分があるくらい突然その話が断ち切れた感がありました。

 あれから10年余りたちますが、今計画があった付近はどうなっているかというと、専門店が10店舗あまり出店しており、非常に中途半端な状況になっています。「農地の転用が困難」と言う理由で開発がなされなかったはずですが、なぜ今店が建ってしまっているのか、具体的に理由の説明がないままなんとも納得がいかないのです。

 考えてみたところ、当時の市と工事を受け持つ受注業者など、関連したところの利害関係が大きく関与していたのではないかと言う部分を疑わざるを得ません。大手のイオンモールとなるとおそらくイオンと関係の強い業者がそういった部分を受け持つことが考えられ、地場業者にとっては面白くない話ではないかと思います。そういう話が一部の人たちだけの間で行われ、実際の利用者にとっての意見と言うものがまるで反映されていないのが今の長野市の姿になってしまったのではないでしょうか。

大型商業施設建設「賛成」は約75%の現実

 須坂市によると、地元の消費者や商店主から意見を聞く場として3回にわたり開いた協議会で、建設による「反対意見はほとんど聞かれなかった」と説明しています。また、市が開発についてインターネットで募った県内外の意見についてまとめたところ、「賛成」が約75%を占め、「反対」の約7%を大幅に上回ったということです。

 ここからわかるように、現実的に建設を望んでいる声は多いわけで、民主主義国家である我が国の原理原則にのっとってみるとよっぽど特異な事情がある限り否定する事は出来ないはずなのです。

 確かに商店会側の意見とすると出店後、自分たちの死活問題に発展するため非常に悩むのは確かな話です。しかし、高齢化、過疎化で弱体化する町の現状からは、方向転換を余技されないという現実に直面しているはずです。

 12年の県の調査では、住民が地元で買い物をする割合を示す地元滞留率は須坂市48・9%で、県内1位の長野市(93・6%)の半分程度、隣接の中野市(76・2%)の6割というデータがでてきています。市外在住者も含めた買い物客の多さを示す吸引力係数は須坂市59・7%で、中野市(146・2%)の4割程度とのことです。しかし、実際はそれ以上に他へ流れている可能性があると考えます。

 

長野市中心部の現実と近隣地域の現状

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在りし日のそごう やはり街が古い感じ 

出典:http://tamagazou.machinami.net/naganoshigaichi.htm

 ここ10年ほどで長野市の駅周辺の市街地の様子は一変しています。

 数少ない百貨店の一つであった「そごう」は2000年(平成12年)7月に閉店、近隣の「ダイエー」は同12月に閉店、郊外へ移転しています。これにより長野市の中心部は「東急百貨店」のみが残っている状態となっていますが、売り場は決して魅力のあるものではありません。買い物するところがなく、仕方なくそこで購入していると言わざるを得ない状況です。

 「そごう」跡地にはSBC信越放送が核となる商業施設へ、「ダイエー」は市が核となり「もんぜんぷらざ」として各企業を誘致して再利用しています。しかし、施設は非常に古めかしく、駐車場代を払ってわざわざ行きたいという人は少ないのではないでしょうか。

 歴史を見ていくとこの辺りの集客全盛期は1950年代後半~バブルがはじける1990年ごろ(昭和30年代~平成初期)であることが分かりました。この流れから見て分かるように、それまでの市街地で消費するスタイルから、自動車重視の郊外で消費する傾向にあるという現実があります。

 昨年、長野市善光寺御開帳、北陸新幹線開業ということもあり、駅前の駅ビルを一新しました。専門店がいろいろ入るということでちょっと期待して足を運びましたが、あくまで観光客向けの施設、地元住民が日常的に利用するには程遠いと実感しました。

 このように、既に市の中心部はかつての活気はなくなっており、一見にぎわっているようには見えますが、それは観光客による効果が大きいのです。中心部の空洞化は年々進んでいるわけで、かつての消費は今どこへ行ってしまったのか、市はもっとここに着目すべきなのではないでしょうか。

 近隣の街へ目を向けてみると、上田市には大型の商業施設が2軒あります。「イオンショッピングセンター」とセブンホールディングスの「アリオ」です。「アリオ」はそれまで上田駅前にあったイトーヨーカドーが実質的に移転した形ですが、結果は連日満車になるほどの大盛況です。時代は圧倒的に郊外型ショッピングモールへと移ってきたことを象徴づけています。普段あまりであるかない私が行くぐらいですから、長野市地域からの集客もかなりあるのではないでしょうか。

 

近隣の大型店規模は・・・

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アリオ上田店 出典:http://assets.rimg.jp

 長野市付近にある大型商業施設の代表は上田の「イオンショッピングセンター」(延床面積約60000平方メートル)、「アリオ」(延床面積約47300平方メートル)、松本には2017年度中オープンを目指す「イオンモール」(敷地面積約62500平方メートル)、一方で長野市の核となるショッピングセンターは「とうきゅう百貨店」(延床面積約20000平方メートル)です。

 郊外のほうは土地が存分にあるのに対して、市街地は限られた土地で商売をやるしかない、自動車優位の地方都市にとってはやはり郊外型の商業施設のほうが有利なのではないでしょうか。

 

大型商業施設との融合

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大分市のパークプレイス

 こういう地域だからこそ、もう少し外に目を向けてみることが大事であると思います。遠くは九州まで離れますが、ここには大型商業施設とスポーツとが一体化した地方の成功例がみえるのです。

 大分県大分市にある「パークプレイス大分」。ここは2002年(平成14年)に開業した敷地面積約180000平方メートルもある複合商業施設です。

近隣にはJリーグ大分トリニータ」のホームグランドがあり、160店舗余りの専門店が入るイオンが核となってできた超大型のショッピングモールなのです。

 この近くにはさらにはパークプレイス大分公園通りと呼ばれる住宅地もあり、新しい街を形成しているのです。

 ここがある場所は大分の市街地からは遠く離れた高速道路のインターチェンジがある郊外。しかし立派な商業を展開しており、県内各地からの集客で連日にぎわっています。

 商圏としては長野北信地域と大きな差はありません。しかしながら、もう少し市街地には地元百貨店が核となる「トキワわさだタウン」(売り場面積約10万平方メートル)があります。更に大分駅前は最近再開発され、在来線しかないですが、長野駅に引けを取らない大きな駅ビルができたのです。

 結果、街の魅力が一層増し、地域経済に貢献しているだけでなく、「住みたい」という意見が増えた結果、ここ10年人口は増え続けているのです。まさに官民一体となって街を開発していった結果と言えるのではないでしょうか。

 

最後に・・・

 街づくりの仕方自体が変わってしまうぐらい影響がでるため、賛否両論が出る大型商業施設の建設。しかし、新しい社会、街づくりを考えるうえで民主主義である以上、一部の関係者の考えにとらわれない先進的な意見が言えることが大事であると思います。また、新しく来たものをよそ者扱いするのではなく、いかに協調して、これまで以上の成果へと結び付けていくか、閉鎖的な土地柄であるからこそ期待したいのはそういうところです。長野には観光資源が豊富で、首都圏からも比較的近い立地にとても恵まれた土地です。是非、より住みやすく人が集まりやすい地方都市へと発展していってほしいものです。

 

 

伊藤忠商事、村木厚子氏起用で創価学会と密接になるのか・・・

世界の伊藤忠商事が驚くべき人事を行っていることがわかりました。

今回新たに社外取締役村木厚子・前厚生労働事務次官(60)を充てる役員人事を発表したのです。6月の株主総会日付。村木氏が昨年10月の退官後に企業の役員に就くのは初めてということです。朝型勤務などの働き方改革を進める伊藤忠は「労働政策の豊富な経験とともに、女性の働くモデルとしても期待している」と説明する。また、任期6年の慣例を破って岡藤正広社長(66)の続投を決めた一方で、小林栄三会長(67)は「任期を全うした」として取締役を外れることになりました。

 村木氏は2009年に郵便不正事件で逮捕されたが、翌年に無罪が確定し、復職。13年に事務次官に登用された経歴があります。

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出典:http://www.47news.jp/

 キャリアからみていきますと、人当たりが良く非常に優秀だということがわかります。

 しかし、元キャリア組であり、創価学会となると政府、とりわけ公明党との結びつきが強いのではないでしょうか。

 

 懸念されるは伊藤忠商事で今後問題が起きたときに、この宗教問題がクローズアップされてしまう可能性があるということです。

 

 社外といえども取締役クラスになるということは社内にその影響力が及ぶわけですから、その人物がどう出てくるかで大きく会社の事情も変わってくるのではと思います。

 

 また、伊藤忠が政府との結びつきを強めるため村木氏を起用したことが考えられますし、悪く言えば天下りのようなものかもしれません。

 

 厚生労働省にいた村木厚子事務次官退任したときは、「やらせて頂いて本当によかったと言える大事な仕事だった」と、37年半の公務員生活を振り返っています。

 雇用均等・児童家庭局長だった2009年6月、大阪地検に逮捕されて164日間勾留されたことで一躍有名になりました。そして、その経験から「だれでも身近な人に支えてもらわなきゃいけなくなることを実感した」と言い、復職後は「気持ちを込めて仕事ができるようになった部分はあるのかなと思う」と話していました。11年6月からは、冤罪(えんざい)事件の当事者として法制審部会の委員も務めています。

 後輩の女性官僚には「非常にハードで家庭との両立とか難しいことはいろいろあるかもしれないが、その時々の100%で力を出せばいい」とアドバイス。退任後の身の振り方は「まっさらで白紙」とした上で、「政治(の世界)には行きませんので、それだけは広めておいて下さい」と笑いを誘っていましたが、最終的にはこういうことだったのか、と新たな事実に驚いたニュースでした。

 

 

 

守屋益男氏エベレスト登頂快挙、その人物と経歴

素晴らしい快挙を成し遂げました!

こういうニュースを聞くとなんだかうれしくなりますし、年をとってもまだまだできるという励みになります。

日本勤労者山岳連盟(東京)の顧問を務める守屋益男さん(80)が、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロタンザニア、5895メートル)の登頂に成功しました。60代を中心とした県内外の10人を率い、傘寿を記念した自身、3度目のチャレンジ。最高地点ウフルピークを踏破たのです。

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 その経歴を知ったとたん驚愕の事実がわかりました。

 45歳で初挑戦し、頂上の一角、5685メートル地点のギルマンズポイントまで登ったそうで、若いころからやっていたわけではないようです。65歳で最高地点を目指したが悪天候に見舞われ、目的地を変更した。登山仲間から「ウフルピークに登った」と聞くたび、もう一度チャレンジしたいとの思いが募った。昨年11月に80歳の節目を迎え、自分の体力を確認する意味も込め、より高みを目指そうと決心したそうです。

 地方紙では現代の伊能忠敬と言われるほどいろいろなところを歩き、山登りに関する著書も多数です。23歳で山登りに目覚めて数々の偉業を成し遂げてきましたが、今回さらにその記録を塗り替えました。

 ―9日午前10時半(日本時間9日午後4時半)に入山し、登頂を果たして15日午前11時(同15日午後5時)に下山しました。

 標高約4600メートルのキャンプ地を14日午前0時ごろに出発し、ウフルピークにたどり着いたのは午前7時40分ごろとのことです。頂上へのルートは急な坂が続く難所のため、体に多くの酸素を取り込めるよう腹式呼吸を心掛けた。山頂に近づくにつれ、寒さは厳しさを増した。先行者のヘッドランプがはるか先に見え、「あそこまで行けるのか」との不安にも駆られたが、これまでにない好天に恵まれており、気持ちを奮い立たせたそうです。

 

 次は85歳の節目にまた何かやってくれるのではないかとちょっと期待です。